2016年06月30日

ポエム、ポエマー、ポエミスト。

すべきことが後回しになる。
焦りとは、物事をダメにする。
しかし、期限が過ぎてゆくのを悠々と見送るのは、
余裕ではなくもはや惰性。

全てを水に流すように、放棄できたらいいのにな。


これは、ぼくが高校生のころ書いていたブログの記事のメモのようなものです。
ときどき、それらのメモを見返して、思考の整理をします。

そこに、以下のようなことが書いてありました。


・塾講師をしていて生徒に話した話。教師になったらしたい話。
「努力した者が全て報われるとは限らん。
しかし成功した者はすべからく努力しておる。(『はじめの一歩』鴨川会長)」

努力は必ず応えてくれる!なんて夢物語はない。
けれど、頑張ってこなかった分のツケは必ず回って来る。
100%頑張っても、「ああ120%頑張っておけばよかった」って思うことはある。
でも逆に、80%しか頑張らなくても、「ああ、あのときもう10%手を抜かなくて良かった」って思うこともある。

もしも、昔、もう10%手を抜いていたら、今の僕はここにはいなかっただろうね。


なんていうか、過去からのメッセージですかね。
頑張っても、頑張っても、頑張りきることはないけど、
少しでも頑張ってよかったなって思うことはあるのだから
もう少し頑張らないと。
今10%手を抜いたら、教師になった時に、この話、生徒たちにできませんね。


他のメモからも一つ。


忙しいことを「忙殺される」とはよく言うが
忙しさに浮かれることで、余裕を失うのはどうかと思う。
どんな状態でも、人のことを考える心は失いたくないものだ。
心だけは、殺さずに生きたいものだ。


では。
posted by リソルート at 18:47| Comment(0) | 雑記。 | 更新情報をチェックする

2016年06月11日

もうひと頑張りするための。

『世の中に無駄なものなどなにもない』というのは、耳触りの良い言葉でよく聞くけれど、
それだけに、一面的に見れば真実なのかもしれない。

『勉強より大切なものがある』
『勉強は、勉強より大切なものを守るためにするのだ』

『テストの結果が全てではない』
『テストの結果がその人の全てではないように、
テストの結果もその人を構成する一つの要素だ』

そんな言葉のように、多くの人が「そうであってほしい」と願っているという点で、一面的には真実なのかもしれない。


けれど、より科学的に、より数学的に、より論理的に考えれば
無駄と言うのは存在する。

もしも。
もしも、全く無駄のない人生が歩めたとして
やるべき必要最低限の行動で、最大限の成果を上げることができる人生のレールが敷かれていたとして
その人生を歩みたいと思う人はいるのだろうか?
その人生は、楽しいのだろうか?

そんな人生は、「楽」だけど「楽しく」はない。


『人生をどれだけ満喫できるかは、
どれだけ「ついで」や「せっかく」を見つけられるかなのではないか』

最近、切にそう思うようになった。
私は、「せっかく」と言う言葉を、できるだけ使わないようにしようと思っていた。
日本人は「せっかくだから〜しよう!」「ついでに・・・する」という言葉をよく使う気がする。

「せっかくだから〜しよう!」という行動は
「ついでに・・・してしまおう」という思い付きは
そこに主体的な目的はないのだから
無駄なことと言えないだろうか?

けれど、そうして「せっかく」や「ついで」を省いた生活を送ってみると、逆に効率が悪くなったと思う。
時間の使い方が下手くそになったと思う。
そしてなにより、生活に充実感を感じなくなったと思う。

どれだけたくさんの「せっかく」や「ついで」を見つけて行動できるかで、生活の充実感が変わるのなら

生きているついでに楽しもう。


今をもうひと頑張りするための言葉。

努力をするのに必要なのは、「やる気」ではない。
たくさん努力しても結果が出ないかもしれないという恐怖に打ち勝つ「勇気」だ。


では。
posted by リソルート at 15:35| Comment(0) | 雑記。 | 更新情報をチェックする

2016年04月15日

春の日の夢。

みなさんお久しぶりです。

なんとういか、また更新の間隔が空いてしまっています。
最後の更新から……3か月も経とうとしています。

その間、
バイト→クトゥルフ神話TRPG→寝る
というサイクルを繰り返していました。

何やっているんだか。
いあ! いあ!
TRPG楽しいから仕方ないですね!笑


なんというか、やっぱりこの時期は、塾講師でも家庭教師でも、忙しですね。
それなのに、喫茶店も掛け持ちして。旅行にも行って。しかも2回。実家にも帰って。同級会して。

……よくよく考えれば、ずいぶんと欲張りなことをしているものだと思います。

しかし、やるべきことを先送りにして、やりたいことを欲張ってしまっています。

ずいぶんと遅くなってしまいましたが、今日から、また、やる気出していこうと思います。

・・・と、いつも思うのですが、なかなか上手くいきません。
将来の為に、今を犠牲にする。今の為に将来を犠牲にする。
そういうのは、僕の考えとは反していまして、"両方もらう"。いつも僕はそう欲張ってきました。

諦めるものか。
まだ間に合うでしょうか。


最後に。
ガルパンはいいぞ。


では。
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posted by リソルート at 08:30| Comment(0) | 雑記。 | 更新情報をチェックする

2016年01月23日

物語の終わりに。

小説が書かれ、そして読まれるのは、人生がただ一度であることへの講義からである
――――北村薫


みなさんおはようございます、リソルートです。
最近夜10時ころには寝て朝6時ころには活動を開始するという超人的生活を送っています。


さて。
毎年、年末から冬本番であるこの時期までの間に、最終巻を迎える小説・マンガが多いように思います。
今シーズンも、継続して買っていた単行本が2冊ほど最終巻を迎えました。

とても良い物語というのは、終わってほしくないものです。
永遠にこの物語が続けばいいのに、と思わずにはいられないのです。

これは、僕が中学生のころからずっと抱き続けている理想のようなもので、
僕の物語の嗜好に大きく影響を与えています。

たとえば、リトバスとか。

けれど、たとえば、ただひとつ至高の(と思える)作品があったとして、
それだけを至高とすることは、依存とも言えるのではないでしょうか?
一つの作品に依存し、それ以外の作品を排除してしまうと、それは、閉鎖的になってしまいます。
閉鎖的な空間では、新しいものは生まれにくく、退廃的になってしまいます。

新しい物語を読む読み手がいなければ、新しい物語は生まれません。
新しい物語が生まれなければ、良い物語も生まれません。
そして、「昔は良かった」という過去の至高にすがるようになってしまう。
これは最悪の悪循環ですね。

「良い話だった。惜しむらく終わってしまった」
「では、仕方ないし、ほかの面白い物語でも探そうか」
「次はもっと面白い作品に出会えるかもしれない」

そうして、ひとつの場所に留まらず、常に僕らは前に進み続けていかなくてはいけない。
そういうメッセージが、物語の終わりにはあるのかもしれません。
その、ほんの少しの後押しを、物語の終わりはしてくれているのかもしれません。

だって生きている限りは僕らは歩き続けなければいけないのだから。

これは、小説マンガに限った話ではなく、ゲームや映画、ドラマなどにも共通すると思います。

終わりがあるから、物語なんだ……という言葉。
今になって、ようやくその深い深い意味を知ることができたように思います。


寒い日が続きますが、体調を崩さないように。

では。
posted by リソルート at 07:58| Comment(0) | 雑記。 | 更新情報をチェックする
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